あらすじ
大学生の清水四郎は同乗していた友人の田村がヤクザをひき殺してしまったことから人生が狂い始める。
更に恩師の娘であり恋人の幸子(ゆきこ)と乗りこんだタクシーが事故を起こし、幸子を死なせてしまう。
母危篤の知らせを受け故郷へ戻る四郎。彼の父親は養老院を経営していたが経費をピンはねし、2号3号を
作るなど私欲の限りを尽くしていた。また母屋にはかつて四郎の母親の恋人だったという画家と
その娘で幸子とうりふたつのサチ子が居候していた。
ほどなく悪魔のような友人・田村が姿を現すと共に、講演会の為幸子の両親がこの地を訪れ、更には
死んだヤクザの母親と妻までもが四郎に復讐するためにやってくる。
賄賂を受け取り無実の男を有罪にしてしまった刑事や偽りの記事で無実の男を自殺に追いやった新聞記者、
誤診の為に何度も人を殺している医師らが加わって業と情念の物語をつむぎ出して行く。
養老院設立15周年記念式典の日、四郎を殺そうとしたヤクザの妻は誤ってつり橋の上から転落死、
四郎に色仕掛けで迫った2号は嫉妬した四郎の父に階段から突き落とされて死亡する。
また幸子の死以来生きる力を無くしていた両親は鉄道に飛び込んで自殺。
経費をケチったため活きの良くない魚を食べて養老院の老人達が死に、残る登場人物はヤクザの母親が
仕込んだ毒入りの酒を飲んだり銃で撃たれたり首をくくったりして登場人物の全てが死亡する。
地獄に落ちた彼らを待っていたのは六大地獄の責め苦だった。皮剥ぎの刑、ノコギリ引きの刑、
舌抜きの刑。亡者達の阿鼻叫喚の中をさまよう四郎は幸子とめぐり合い、彼らの間に子供が出来ていたことを知る。
赤ん坊の泣き声を追い求めて血の池地獄や針の山を行く四郎は次にサチ子とめぐり合い、
幸子への思いからうりふたつのサチ子を抱こうとするが現れた母親からサチ子は血を分けた実の妹であることを知らされる。
親の因果を身に受けて永遠の苦痛地獄へ落ちて行く四郎と幸子の子。
我が子を求め六道輪廻の輪の上に身を投げ出す四郎の姿があった。
後に2度リメイクされることになる「地獄」の、これは最初の作品で中川信夫の監督作。
今更言うまでも無い事だが、東海道四谷怪談(1959)と並び監督の最高傑作の1本といわれている。
怪談ものと同様のくすんだ色調、素晴らしい美術は業の物語の世界を作り出すのに成功している。
カメラを倒したり逆さまにしての構図、短いカットによる積み重ね、別空間を繋げた1カットによる場面転換等は
ややアバンギャルドな雰囲気を醸し出している。こうしたテクニックは今では古い手法と呼ばれるのかもしれない。
しかしながら時間・空間を歪めたモンタージュは密度の濃い物語を作るのに極めて有効であり、
無駄の多い1カット、ありのままの絵面をストレートに提供する旨を良しとした昨今の映画が失ってしまった感性なのではないだろうか。
地獄の阿鼻絶叫図を表現する特殊効果は流石に稚拙と言わざるを得ないが、CGは勿論の事、特殊メークアップなどという
言葉すら一般的でなかった時代の映画であることを考えればいたしかたないとすべきであろう。
近年素材の向上、ノウハウの浸透により特殊メイクの技術も飛躍的に進歩したが、そういったものは細部にわたって作りこめば
作りこむほどおもちゃ然としてくるものである。
むしろ時間を経過した死骸などは張りぼて然とした稚拙な造形物の方がおぞましさを増幅させることもあるように思われる。
また特殊効果の技術不足という結果論ではあるにせよ、この映画の『地獄の獄卒』等にみられる『見せないための技術』(特に照明の重要性)あるいは
舌切断シーン等における決定的瞬間の欠如という演出の重要性を見直すべきであろう。
(もっとも五体切断や皮剥ぎシーンでのモンタージュは成功しているとは言いがたいが)
計算的に映し出されなかったディテールを観客は自ら補完し、最恐のビジュアルを脳内に創り出すものなのだから。
出演者については四郎を破滅の道へと導く田村役の沼田曜一が実に良い味をだしている。
『野獣死すべし』の松田優作と同じようなポーズをとるカットがあったので笑ってしまった。
悪魔的キャラクター特有のアクションというところか。
個人的趣味として書かせていただけるなら、演技力は兎も角として三ツ矢歌子の清純さ美しさは特筆すべきものがある。
遺影となって額の中から微笑みかけるその可憐さは尋常ではない!
主役を務めた天知・三ツ矢・沼田の諸氏はすでに鬼籍に入られた。古き良き時代を偲ぶ映画といって良いだろう。
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